”シンギュラリティは何時やってくるのか”。”ChatGPT”は人知の場を奪うのか”。ここ数年、なにやらオドロオドロしい言葉がネット界隈で語られています。特に2022年に「ChatGPT」が発表されてからは、その界隈は一気にざわつき始めています。「これ、やばくね?」と。やばいです、色々な意味で。
シンギュラリティ、「コンピューターが人間を超える」。それは映画「ターミネーター」や「2001年宇宙の旅」のような世界観を彷彿とさせるため、なぜ僕らはそんなに生き急ぐのかと、人類の業を恨みながら社会の変化を受け入れるしかない。そう思う人は少なくないでしょう。
僕たちの仕事は続くのか、子供たちの未来は明るいのか、そもそも僕たちはこのままで良いのか。そんな不安に対する答えは誰もわからない。
彷徨う、羅針盤
皆さんは日本国が毎年発行している「科学技術白書」というドキュメントをご存知でしょうか。初版は1958年ということですが、文部科学省が国内と世界の科学技術の動向を調査して、「今年、または今後はこんな科学技術がきますよ」と予測し発表するドキュメントです。これは日本の経済にとって結構重要なドキュメントでして、国内の科学技術に割り当てる予算配分を決定する際に参考にされてきました。その配分された予算は、まず大手企業や有名大学、研究機関に割り振られ、そこから下請け孫請けと。つまり、長らく日本経済を担ってきた科学技術の指針の一つになってきたのが、この科学技術白書です。
しかし、”その兆候”は2000年代に入ってから既に始まっていたようです。 日本の科学技術の未来へのベクトル設計が、なんだか世界とちょっと違う。
そしてコロナ禍前の頃から、科学技術白書が伝える”未来”の様相が変わってきました。 それはまさに、2045年頃と言われていたシンギュラリティのX年は、遥かに早い時期にやってきそうだと、AI界隈がざわつき始めた頃でした。
簡単に表現すると、科学技術白書曰く「未来なんてわかんねーから、抽象的にまとめるね」という感じ。それは哲学的だったり宗教的だったり、またはスピリチュアルだったりと、論理を大切にする科学技術とは印象が違う表現が散見されるようになっています。そう、僕たちがこれまで導かれてきた未来への羅針盤は、迷走しているようです。
未来への岐路と、選択
今、僕たちは、近代史上で結構大きな岐路に立っているのは間違いないです。そして未来なんて誰もわからない。「AIはやべえのか」「シンギュラリティは人知を駆逐するのか」。「超高齢化社会の日本に未来なんてあるのか」。
ちょっと待て、ネガティブな印象論で考えているうちは明るい未来なんて描けない。いや、万人にとって明るい未来なんかない。少なくとも、大きな岐路が目前に来た時に、やんわりとでも進むべき道を選択できるロジックを探したい。それがわかれば、少なくとも「僕たちの居場所」が未来に見つけられるでしょう。
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